ひとりゴチるブログ

つぶやき以上、日記未満。日々の成長記録。

言葉の概念とわたし

共通認識の違い。

(どうすり合わせをしようか。

会話の最中、同じ言葉や単語を使っているはずなのにどうしてかズレを感じることがある。

うん、そうだね……???と、首を傾げることもしばしばだ。

互いに”日本語”という共通言語を使用しているので言葉は通じるのだけど、どこか通じていないこの違和感。

わたし自身も言語化する力が乏しいため、なんだろうなあなんだろうなあと考え続けて来たけれど、

年齢を重ね、様々な経験をし、学び、知る作業を続けていると徐々に分かってくることがある。

 

ここのところ岩村暢子さんの話を噛み締める日々を過ごしているが、この動画で仰っていること(56:53付近~)を受けて、際限なくある違和のひとつが解消したのだった。(お話聞いてて涙出そうになったよ。
そして、わたしが感じていたのは違和どころか拒絶に近い不快感であったことも。

youtu.be

わたしも身につまされる話ではあるし、忙しい・面倒くさいにまみれ、それを都合良く口実に使っている自分がものすごく恥ずかしいと感じる。

 

せっかく親をはじめ伯父や伯母、祖父母から伝えられ受け継いできた大事なことを、元々は知っていたはずのことを、自ら蔑ろにしている事実に大いに反省するのだった。

 

言葉の概念を捻じ曲げているのは誰か。

他者との共通認識のズレを、深く思考することもせず「そういうものかもな」と受け入れてきたのは一体誰か。

 

面倒だからと放置してきた違和は、ブーメランとなって己に返っている。

 

自戒を込めて何度だって書くけれど、反省という言葉を使うだけなら簡単で、行動が伴わなければ、反省などしない方がマシなわけで。

 

わたしはどう生きどういう人たちとどういう関係を築きたいだろうか。

 

客観とは、自己との関係性を無視して向こう側に対象を置いて見ることではなく 、その同じ床に立つ者である自己も含めて対象化する目線を持つこと。

客観というのは対象をあちら側において、『あの人たちは』『彼らは』と自分とは関係のないもののように突き放して見ることではない。

共通の地面に立つものとして自分との連関性をきちんと捉えられること。つまり分析者自身の自己相対化能力も厳しく問われるものである。

 

変わる家族 変わる食卓/岩村暢子

 

行きつ戻りつ何度でも。

気が付いたら軌道修正を。